「反出生主義者」を名乗りながら過度に攻撃的、もしくは悲観的な言動をインターネット上で繰り返す人々があまりにも多すぎます。
そういう人々の言うことに限ってリツイート/リポストなどで拡散されやすいものですから、「反出生主義」と呼ばれる立場は支持を広げることができず、反出生主義の支持拡大を目指して真剣に活動している者や、反出生主義がもう少しだけ広く支持されていれば作られずに済んだであろうヒトや非ヒト動物の意識たちが迷惑を被っています。
もちろん、反出生主義者(を名乗る人々)の言うことの全てが反出生主義の中身を反映するわけではないということを分からずに、あるいは分からないふりをして、反-反出生主義のプロパガンダとして機能する仕方で情報拡散に加担する人々の責任は全く問われなくてもいいのだと主張したいわけではありません。
しかし、そういう者の存在を無視して頭に浮かんだことを何でもかんでもインターネットに垂れ流してしまうことは、反出生主義の支持拡大に貢献せずとも邪魔することはしない、という反出生主義者として最低限果たすべき責任の放棄を意味します。
※我々無生殖協会は「反出生主義」という語が起こし得る問題を避けるために「無生殖主義」という語を代用する立場をとりますので、ここからは「反出生主義」を「無生殖主義」、「反出生主義者」を「無生殖主義者」と表記することにします。
顕著な例の1つが、Reddit に存在する巨大なコミュニティー r/antinatalism(r/AN)による被害です。
インターネット上で最大級のコミュニティーなので、種差別主義的、反種差別主義的、環境保護主義的、ミサンドロピック、フィラントロピックなど多様な無生殖主義者が集まります。
私が r/AN を知った時点で(そして残念なことにその後も長期にわたって)、r/AN は
「r/antinatalism」という名前
無生殖主義に関連するコミュニティーとして最大のメンバー数
「公開」状態にあるため、無生殖主義を知らない人々も含めて誰でも閲覧できること
によって無生殖主義のイメージ形成において重大な責任を負うにもかかわらず、メンバーによる pro-natalists(生殖奨励主義者)への侮辱、自分が作られてしまったことについての個人的な嘆きなど、無生殖主義の支持拡大を妨げるコンテンツに溢れていました。
ANI共同設立者との交流や無生殖協会の共同設立によって私の名前が知られるようになった時、私は著名な活動家であるオールドファン氏から r/AN の mod チームへの加入を勧められました。
前述の理由で r/AN の状態について強い懸念を持っていたので、一度誘われてしまえば私はチームに加わることをほとんど躊躇しませんでした。
加わらない理由があったとすれば、r/AN に投稿される不愉快なコンテンツで精神衛生を損なう恐れくらいでしょうか。
しかしそれは、mod チームに加わって無生殖主義への風評被害を止めるチャンスを与えられたのだからそれを活用しなければならない、という私の義務感には勝てませんでした。
私が加わる前から「言論の自由」対「言論統制」の戦いが mod チーム内で起きていたかどうかは分かりませんが、私は加入してから常に「言論統制」寄りの立場から、
pro-natalists(いわゆる『出生主義者』、または生殖奨励主義者)に対して使われる蔑称「breeder」の使用を禁止する
「ブラックアウト」(r/AN に加入していないユーザーは コンテンツを閲覧/投稿できない状態――正式には『private』状態)によって、人々が「antinatalism」という語を知るきっかけをr/ANが作らないようにする(そしてより良いモデレーション下にある r/antinatalism2 がその役割を代わりに担うようにする)
などの施策で r/AN から無生殖主義の進歩を妨げる力を奪うべきだと主張してきました。
しかし、既存のモデレーターのほとんどが「言論の自由」寄りの立場から私の意見に反対しました。
私と同じ動機で r/AN のモデレーターを務めていたL氏だけが、私の意見への理解と賛同を示してくれました。
何がきっかけになったのか見当もつきませんが、幸いなことに、我々に反対する立場にいたモデレーターのほとんどが今年初めに心変わりし、チームは Reddit のコンテンツポリシーに反するポスト/コメントだけを消去する方針を捨てました。
ポスト/コメントに適用される際にモデレーターの主観的な判断が必要とされる「civility rules」が導入され、r/AN が外部に与える印象をそれまでよりも悪くないものにするための施策が採られました。
そのおかげで私は、現在とこれからしばらくの mod チームならば、r/AN が無生殖主義にもたらす悪影響を十分に抑えられるだろうという現実的な期待を持って、今年5月末に mod チームを離れることを自分に許すことに成功しました。
辞任から2ヶ月以上経った今では、私の経験したことが実際には言論の自由 vs 言論統制の戦いではなかったことが当時よりもはっきり分かります。
言論の自由という概念は、そもそも特定の社会運動を支持する(はずの)集団に絶対善としてそのまま適用できるものではありません。
反人種差別主義を支持する人々の一部が「白人は理性のないバカだ」などと Twitter で騒ぎまくれば、反人種差別主義の支持拡大を妨げてはならないという責任を自覚している他の反人種差別主義者に叱られて当然です。
これが言論の自由の侵害でないのは明らかですよね。
無生殖主義に関して言えば、無生殖主義を公に支持したり、その支持を広げるための表現活動をしたりすることを可能にしてくれるのが言論の自由であり、それを妨げるのが公権力による言論統制です。
無生殖主義者というカテゴリーに属する人々が無生殖主義の支持拡大に貢献できる仕方で表現活動をしようとする(=支持拡大を妨げる不適切な表現を使うのをやめる)ことは、言論の自由を侵害する言論統制ではありません。
では私はどういう表現の内容/仕方を提案したいのかといえば、例えば下記のようなものです:
表現の内容:特に強調して語るべきこと
無生殖主義者は「(多くの場合共感に動機付けられた)理性の行使」の結果として無生殖主義を支持している。
無生殖主義を支持することは、必ずしも悪い人生を送っていることを意味するものではない。ある者が悪い人生を送っていることはその者が無生殖主義の支持に至ることを容易にするだけで、無生殖主義の正当性には何の影響も及ぼさない。
無生殖主義者を支持しない者は、まだ生殖の道徳性についてきちんと時間をかけて考える機会を与えられたことがないだけだ。必ずしも「悪人」だから支持しないのではなく、きちんと時間をかけて考えれば必ず理解と支持に至ることになる。
無生殖主義を優生思想、ナチズム、宗教などと結び付けて批判しようとする人々には、いったん全ての前提を忘れて、あらゆる種類の価値の源である苦痛の悪性(と快楽の善性)に立ち戻って物事を考えてもらいたい。そうすれば個々の立場の違いを適切に認識できるようになるはず。
貧困や障害など特定の条件に当てはまる人々の生殖は、そうでない人々の生殖よりも悪いわけではない。苦痛を感じる能力を持つ(と合理的に推定できる)者を作る限り、全ての生殖は等しく悪いからだ。
無生殖主義とチャイルドフリーは無関係。チャイルドフリーは自分のために実践するライフスタイルであり、利他的な理由で支持・実践される無生殖主義とはそもそもカテゴリーが違う。子供を育てたり子供との交流を好んだり、逆に子供の声を聞くことや姿を見ることを嫌ったりしながら無生殖主義を支持/実践することには何の矛盾もない。
表現の仕方:トーンと論法
「論を憎んで人を憎まず」を心がける。
無生殖主義に反対する立場の人々を蔑称(英語なら『breeder(s)』、日本語なら『ナタカス』『強産魔』『繁罪者』など)で呼ぶことや、無生殖主義の不支持を思考能力の欠如や障害などに結び付ける言動をすることは厳に慎む。説得したい出生奨励主義者を「バカ」と呼んでしまえば、説得を自分で難しくしているあなたがバカに見える。
「子供好き」が無生殖主義の支持と矛盾しないのと同様に、子供への嫌悪を持つことも無生殖主義の支持と矛盾しないが、その嫌悪を表現することは控える。そのような表現は、無生殖主義者を「我々は醜い赤ん坊たちを街で見かけたくないので、赤ん坊を作るな」と主張する集団のように見せてしまう。
生殖した人々を責めない。すでに為されてしまった生殖について無生殖主義にできることはない。無生殖主義は未来をより良いものに変えるために実践されるべき倫理学上の立場であり、過去の行いを断罪するための道具ではない;後者としての使い方は支持拡大を妨げ、未来を変える力を無生殖主義から奪ってしまう。
他のヒトの不幸な境遇(実際に起こった事故、事件、そして特に障害)を無生殖主義の擁護に使わない。
誤りだと広く合意されている立場(優生思想やナチズムなど)と無生殖主義を結び付けて同一視するのが論理的に誤っていることはきちんと考えれば分かることだが、その結びつきを起こしやすい表現をあえて使って無生殖主義の支持を呼びかけようとするのは支持拡大を遅くするだけであり、愚かである。
自身の不幸と無生殖主義を結び付ける表現は控える。
自身の不幸と結び付けていいのは無生殖主義を支持するようになったきっかけだけ。無生殖主義を今支持している理由として受け取られ得る仕方で自身の不幸を語らないように努める。そもそも、無生殖主義を支持するようになったきっかけは訊かれない限り言う必要すらないはず。
もちろん、私はヒトの心理のエキスパートではありませんから、全ての無生殖主義者が私の言うことに従って表現活動をすれば無生殖主義は最速でその目的を達成できるのだ、などと約束することはできません。
しかし、Twitter や Reddit で「理性のない猿」とか「クソ野郎」とか言って生殖奨励主義者を貶すことが目的達成への最速の道ではないということは、かなりの自信を持って断言できます。
生殖奨励主義者を貶したいのであれば、無生殖主義者しかアクセスできないところで、仲間内の愚痴として共有すればよいのです。
しかしそれをあえて生殖奨励主義者に聞こえる場所で言ってしまうことは、前述の「支持拡大に貢献せずとも邪魔することはしない」責任の放棄であり、無生殖主義を支持すると言いながらその支持拡大を妨害する自壊行為です。
では、この問題意識をどう無生殖主義者に共有すればよいのでしょうか。
人々が無生殖主義者になった途端に「こういう表現行為は支持拡大を妨げる可能性があるので注意しましょう」という手紙が市役所から届くような仕組みがあればいいのですが、残念ながら現実はそうはいきません。
恐らく現実的なのは、ある人が「反出生主義」という語を知れば無生殖協会の名前も同時に知ることになるくらいに本会が知名度を上げ、ウェブサイトやソーシャルメディアに共有するコンテンツでこの問題意識を共有することです。
そもそも綱領によれば、無生殖主義に対する偏見の解消は無生殖協会設立の目的の一つであったはずですから、それを果たすために知名度を上げるのは当然本会の目標の一つであるべきなのです。
しかし、前回のブログポストの最後で述べたように、私にはどうにもこの「無生殖主義」という新語が既存の「反出生主義者」と我々との間に壁を作って、アウトリーチを妨げているような気がしてなりません。
「(日本語話者の)反出生主義者の団体があったほうがいいんじゃないの」というようなツイートに「無生殖協会というのがあるんですよ」というリプがつく景色を、ここ数年で何度か見てきました。
そろそろ無生殖主義という語を「反生殖主義」で置き換え、本会の名称をそれに対応するものに変更することを検討すべき時なのでしょうか。
無生殖協会のウェブサイトによれば(なんて私が言うのはちょっと妙ですね、サイトのコンテンツのほぼ全てが私の書いたものなのですから)、無生殖主義という新語を「反出生主義」の別名として提唱した理由は3つあります。
もし無生殖協会が「無生殖主義」を捨てて反生殖主義に乗り換えるのならば、最初の2つ(種差別的な定義の広がりと「誕生否定」による浸食)は簡単にクリアできるでしょうけれども、3つ目の「『反』という字の悪印象」が問題になりそうです。
いかに反出生主義が正しいものであろうとも、名前が作り出す印象で「何となくカルト宗教っぽい」「過激なテロ思想っぽい」と思われてしまっては支持は広がらず、目的は達成できません。一部の反出生主義者は、「反」という字が生み出すこのようなネガティブな印象を憂い、新語の必要性を訴えます。「無生殖主義」という語は、そのような反出生主義者が危惧する事態を回避するのに役立つ可能性があります。
これをクリアするには、
「反」という字に関わる問題を、無視していい些末なものと見なすか、
「反生殖主義」という語を使うことの利益は、「反」という字が生み出すネガティブな印象という不利益を上回ると考えるか、または
反生殖主義という語を使う時には、その最初の1文字のために持たれ得る悪印象を直ちに払拭できる方法で行う
必要があります。
一つずつ考えてみましょう。
「反」という字に関わる問題を、無視していい些末なものと見なす
無生殖協会がその名で設立された大きな理由の一つを「勘違いでした」と言うのは無理がある。
人々が「反」で始まる立場に悪印象を持つかどうかは、結局のところ「反」の後ろに何が来るかで決まっている;差別主義は誤りだと広く合意されている今日、大多数の人々が反差別主義という語に悪印象を持つとは考えにくいし、逆に出生奨励主義が支配的な地位を占める今、「反出生主義」「反生殖主義」に多くの人々が悪印象を持つことは当然であろう。
「反生殖主義」という語を使うことの利益は、「反」という字が生み出すネガティブな印象という不利益を上回ると考える
無生殖主義という名前にこだわり続けて知名度を上げられない(=既存の反出生主義者からの支持どころか認知すら得られない)よりは、反生殖主義という名を使うことで、(『反』という文字のせいでネガティブな第一印象を持たれるリスクを多少冒しながらでも)反出生主義者と本会との間に橋を架けて問題意識を共有するほうが、結果的に支持拡大を速めることができるのではないか。三人寄れば文殊の知恵。
反生殖主義という語を使う時には、その最初の1文字のために持たれ得る悪印象を直ちに払拭できる方法で行う
私には、明らかに効果的と思われる方法は思いつかない。イメージ戦略の一環として無生殖協会のヴィジュアル・アイデンティティーをペールピンク/黄緑ベースのものにしたが、それが人々から「反」という文字を理解する力を奪うわけではない。
今のところ、私には2の「『反生殖主義』という語を使うことの利益は、『反』という字が生み出すネガティブな印象という不利益を上回ると考える」は無生殖主義から反生殖主義への乗り換えを擁護する議論として十分であるように思われます。
もしかすると、無生殖主義のイメージ戦略に関する危機意識が特別強い(そうでなければこのブログポストを書いていないはず)今だからそう思うのかも知れません。
少し時間をおいて、それでもまだ私の意見が変わっていなければ、他の会員の皆さんを交えて本格的に議論する価値があるかも知れません。
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