top of page

『誕生・出産を全否定する“反出生主義”が間違っている7つの理由。「なぜ貧乏なのに僕を産んだの?」にどう答えるか=午堂登紀雄』への応答

  • 執筆者の写真: Asagi Hozumi|穂積浅葱
    Asagi Hozumi|穂積浅葱
  • 2021年9月3日
  • 読了時間: 8分

更新日:2024年12月26日

Twitterで見つけたANに関する記事が目を引いたので、遅ればせながらそれへの応答をここに記しておきたいと思います。



記事は『誕生・出産を全否定する“反出生主義”が間違っている7つの理由。「なぜ貧乏なのに僕を産んだの?」にどう答えるか=午堂登紀雄』と題してマネーボイスというサイトに掲載されたものです。

なぜこのサイトがこんな話題を扱うのか分かりませんが、それだけ「反出生主義」という語が人々の目について興味を引くようになってきたということでしょうか。

この記事は7つの理由を挙げるだけの単純なものではないのですが、ここでは淡々とそれぞれの理由に反論するだけにしたいと思います。

なお、反出生主義という語が種差別丸出しの反ヒト生殖主義として扱われている点について詳しく反論することはしません。

ここでは基本的に、午堂氏の挙げる7つの理由が反ヒト生殖主義への反論として有効でないことを示すことに集中します。


理由1:人生に疲れて現実逃避している


「なぜ間違っていると言えるのか。今回はその根拠を説明したいと思います」と言った直後にさっそく根拠の形すらしていない “根拠” を持ち出してくるのは滑稽ですね。

午堂氏が挙げたこの “理由” は、ただ彼本人が反出生主義者に対して抱いた印象でしかなく、反出生主義それ自体の正当性には文字通り全く関係ありません。

「詐欺は悪いことだ」という主張を誰がするかによってこの主張の正当性が変わるということはありませんよね。

詐欺師が言っても、詐欺の被害者が言っても、「詐欺は悪いことだ」ということは(恐らく)疑いようもない真実です。

反出生主義の概要として午堂氏が引用した文言が全てABEMA Primeの反出生主義特集から引かれたものであることから、そもそも午堂氏がこのような理由を理由として挙げることができてしまった原因が推測できます。

森岡正博氏の言う「誕生否定」を含んでいる反出生主義モドキが反出生主義であると勘違いして、主語の定まらないぼんやりとした「何となく生まれたり生んだりするのが嫌な思想群」として反出生主義を覚えてしまったのでしょう。


理由2:苦痛は「本人がどう受け止めるか」次第

理由3:苦しみも不安も「必要な感情」


理由2と3では、午堂氏はヒトが作られた後の話をしています。

反出生主義はヒトが他のヒトによって作られることの正当性を否定しているのであって、既存のヒトの “苦痛” がどのように “成長” に繋がり得るかはさらにヒトを作ることの正当性に全く関係ありません。

ヒトが生まれて成長が必要な環境に置かれること自体の必要性を示さなければ、反出生主義に反論したことにはならないのです。

また、「苦痛」と「苦痛を生み出す事象」を区別せずに使う午堂氏の語法には大きな問題があることをここで指摘しておかねばなりません。

午堂氏は「苦しみはそもそも『悪いこと』『いけないこと』『避けるべきこと』『忌み嫌うこと』ではない」から「反出生主義者は、このところに根本的な誤解がある」と理由3を締めくくりますが、彼が本来「悪いこと、いけないこと、避けるべきこと、忌み嫌うことではない」とするべきものは苦痛ではなく、苦痛を生み出す事象です。

純粋で自明な悪性(※)を持つ主観的経験の質である苦痛はその定義上必ず「悪いこと……(中略)……忌み嫌うこと」ですから、稚拙な言葉選びによって苦痛について根本的な誤解をしているのはむしろ午堂氏の方なのです。

※苦痛の純粋な悪性:あらゆるものの中で苦痛だけが唯一純粋な悪性を持ち、苦痛は他のものを悪くすることができる。例えばA氏がナイフで刺されるという事象が悪い理由は、A氏(の意識)が感じる身体的/精神的苦痛、A氏に対して好意を持つB氏が感じる精神的苦痛、A氏の利害関係者C氏がA氏の負傷や死の影響から感じる苦痛である。もしA氏、B氏、C氏の意識が苦痛を感じる能力を持たないのであれば、A氏がナイフで刺されるという事象は悪くないことになる。

これを踏まえて理由2と3を書き換えてみると以下のようになるでしょう。

理由2:苦痛を生み出す事象からどれほどの苦痛を感じるかは本人次第

理由3:生存や成長のために苦痛は必要

理由2は反出生主義の反駁に役立たないどころか擁護に使おうと思えば使えてしまいますし、理由3は反出生主義への反論になっていません。


理由4:人間が存在しているのには意味がある


この理由はあまりにもスピリチュアルで意味不明です。

何も示すことができていません。

ここで扱う価値のない馬鹿馬鹿しい言説なので、これについては何も言いません🤷‍♀️


理由5:「みんないなくなればいい」は思考停止


幸福/不幸になり得る主体が存在しなければその主体は不幸になり得ない、ということを午堂氏は「思考停止だ」と言います。

しかし、「問題を乗り越えていくことで自分が成長する実感が得られる」「苦しいとか痛みとかが予想されるなら『どうすれば避けられるか』を考えることも充実した時間」「考えること、課題を設定し解決することは、私にとって重要かつ満ち足りた在りよう」という午堂氏個人の具体例だけで反出生主義に反論したつもりになるような自他境界の甘さこそ、非難されるべき思考停止なのではないでしょうか。

午堂氏は、自分とは違う人生を生きているヒトたちがいるということを考えることすら面倒なのかもしれませんね。

理由2と3でも言いましたが、ヒトの存在を勝手に開始してそのヒトにこういう問題解決やら成長やらの必要性を押し付けること自体の正当性を示さなければ、反出生主義に反論したことにはなりません。

理由6:子どもが欲しいのは親のエゴだが、産まないのもまたエゴである


ヒトが生物学的な子を持つことは「そもそも生物としての本能でもあり、これを否定すればすべての生物の存在を否定するということになる」と午堂氏は言います。

その通りです。

全ての有感生物は生殖するべきではありませんし、新たな種類の有感生物が誕生することも防止されるべきです。

「ノラ猫だって他のネコとケンカして傷つくなど苦しい思いをしている」という現実に対する「それでも生きようとするからこそ命の尊さを感じます」という部外者の個人的な感想は、苦しみ得るネコが生殖によって作られることを正当化する理由として十分ではありません。

また、恐らくABEMA PrimeのAN特集でのむちさんの発言からとったものだと思いますが、午堂氏は

「子が不幸になる可能性を考えているのか」という意見ですが、幸福か不幸かは死の床を迎えて人生が終わるその日でなければわかりません。

としています。

本当にそうでしょうか。

反出生主義者が「不幸」と言う時に、人生全体を始めから終わりまで総括して評価をつける時の「不幸」の話しかしていないと思っているのでしょうか。


たとえば学校でいじめられている最中は、そのピンポイントを見れば不幸かもしれません。しかしそれを乗り越えて成長し幸福な最後を迎えられたとしたら、それは「あの頃があったから」というポジティブな評価になる場合もあるでしょう。すると、その人の人生にとって、その不幸(だと当時感じた出来事)は「その人の幸福のための必要悪だった」「その人が幸福を得るために克服すべき試練だった」と言えなくもありません。

なぜこの「ピンポイント」の不幸を問題視しないのでしょうか。

そもそもこの種の不幸を「不幸」と呼ぶことができている時点で、このような不幸も問題なのだと午堂氏は分かっているはずです。

なぜその不幸が “成長” や “幸福な最後” に繋がる可能性だけで正当化されると考えるのでしょうか。

そして何よりも、正当化できるように頑張らないといけない主体が自分ではなくこれから生まれる者であることをなぜ考慮しないのでしょうか。

「こいつならこの悪戯を面白がってくれるだろう(なぜなら自分がされた時は楽しめたから)」と勝手に期待して、眠っている知人の瞼をボンドで閉じた状態に固定してしまうのと同じ態度です。

理由6の後半「産まないのもまたエゴである」を説明するために、午堂氏は「私は子が『自分の人生を自ら切り開くという醍醐味』を、親のエゴで奪いたくない」と言います。

しかし、子を作らないことでその子から何かを奪っていることになるのだとすれば大変ですよ。

たった今我々が作ることを怠っている無限の数の子供たちはさぞかしご立腹でしょう!

……そんなことはありませんよね。

生まれる子の利益のために(正確に言うと損害の不在のために)その子を生まないという選択はできますが、生まれる子の利益のためにその子を生むという選択はできません。

生まれる前の子は存在しないので、生まれることでその子が利益を得たり、生まれないことでその子が損害を被ったりするということはあり得ないからです。

「産まないのもまたエゴである」は真っ赤な嘘です。


理由7:「生き方を選べる」のが最大の民主主義


「結局『反出生主義』は、そう思う本人だけがそうすればいいだけで、他人に押し付ける性格のものではない」「子を持つ持たないのは本人の自由なのに、『全ての人間は子を産むべきではない』などとその人の正義を他人に押し付けようという圧力を感じるから、余計に胡散臭さが増します」と午堂氏は言います。

まーたこれかい、と反出生主義者の皆さんは呆れたことでしょう。

「子を持つ持たないは本人の自由ではない」というのが反出生主義の結論なのですから、それに反論したいなら「子を持つ持たないは本人の自由だ」という前提に依拠する理由を持ち出して論点先取に陥るべきではありません。

奴隷制や性差別、暴行などにこれを当てはめてみれば、この「押し付け論」が無意味であることを分かってもらえるでしょうか。

例えば差別であればこうなります。

「反差別主義は間違っている。なぜならここは民主主義国家であり、マイノリティを差別するすることは個人の自由だからだ。差別が嫌なら自分たちだけで差別をやめればいい。我々に反差別主義を押し付けるな」。


 

午堂氏は、この記事への反響を受けてもう1本記事を書いています。

これもまた読んでいてひどく憂鬱になる記事ですが、興味のある方はどうぞ。



Commentaires


bottom of page