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人口減少は無生殖主義にとって何を意味するか

苦痛を感じる能力を持つ意識の皆さん、こんにちは!

本日、私はこのヒトの身体の指を Logicool 製キーボードの上で動かして、ここ数ヶ月考えてきたことを共有しようと思います。


私のように苦痛主義を支持する無生殖主義者にとっては、日本や韓国で見られるような人口減少は一見するとさほど良いことのようには思われないかも知れません。

リチャード・D・ライダー氏が『Painism: A Modern Morality』で言うように、物事の倫理的な価値を測るために複数の個体間で苦痛を合算することはできず、したがって苦痛と苦感能力の廃絶を志向する無生殖主義者から見れば、人口減少は倫理的に有意味な形での苦痛の減少を意味しないはずだからです。

この直観が間違っている可能性はあるのでしょうか?

前述の国々の人口が減ることは、無生殖主義的にとっての小さな勝利や進歩の証のような、ポジティブなものとて見ることはできないのでしょうか?

人口減少は無生殖主義にとって何を意味するのでしょうか?

人口減少と無生殖主義について、アイディアをスピットボール(最近この動詞を知りました。嫌いな言葉です)してみましょう。


人口減少がポジティブなものと思えない理由

なぜ私はこれまで人口減少をポジティブなものとして捉えられずにいたのか、という問いに答えるには、私の無生殖主義者としての立場を明確にする必要があります。

私の無生殖主義は、博愛主義的な見方に由来します――すなわち、私が有感生物の生成(生殖に限らずあらゆる方法で作られること)に反対する主な動機は、作られる有感生物が経験し得る苦痛であるということです。

無生殖主義を擁護する厭世主義的な議論を無効なものと見なしているわけではありません。

ただ私個人の議論として使わないというだけです。

苦痛主義もまた、私の人口減少の見方に影響しているものの一つです。

苦痛主義においては、1単位の苦痛を100の個体にもたらす行為は、倫理的な価値で言えば1単位の苦痛をたった1つの個体にもたらす行為と等価です。

前者がもたらす功利主義的に合算された100単位の苦痛というのは、実際には誰にも経験されませんからね。

苦痛を感じる者の数は、倫理的には何の意味も持たないのです。

これら2点、私の博愛主義的無生殖主義と苦痛主義が、私がこれまで人口減少をポジティブなものとして見ることのできなかった理由を説明してくれます。

最大苦感者(最大の苦痛を経験する者)の苦痛が人口減少で必ず軽減されるようには思われないからです。


誰の数が減っているのか

物事の倫理的価値を評価する時、考慮すべきなのは苦感者(単に被害者と呼んでも良いでしょう)の数ではなく、最大苦感者の経験する苦痛の程度(激しさや期間など)です。

一定期間内のある種の苦感者の数が前期と比べて減る時、それは苦感者がいないようにするという目標を持って動いている人々の努力の結果であることがほとんどでしょう。

警察が交通事故についてしていることを考えれば分かります:彼らは誰か(単数!)を起こり得る1件の事故から守るために活動しているのであって、交通事故から悪影響を受けるヒトの数を減らすために活動しているのではありませんし、それを目標とするべきでもありません。

我々無生殖主義者についても同じことが言えます。

我々が目標とすべきなのは人口減少ではなく、有感生物(または他の有感生物に苦痛をもたらし得る者、と厭世主義的無生殖主義者は言うでしょう)の生成が1件も起こらないことです。

我々はある一個体を存在開始という被害から守るために無生殖主義を実践し、その支持を広げるための活動をするのですから。


厭世主義的無生殖主義者であれば簡単に気付けたことなのかも知れませんが、私は最近、人口減少は加害者の数の減少として見るべきなのではないかと思い始めました。

加害者の数が減ることが最大苦感者の苦痛の減少に繋がるのであれば、人口減少は苦痛主義的に意義のあるものだということになります。

しかしその場合、別の疑問が提起されます――人口減少は苦痛主義的に良いものかも知れないが、無生殖主義的にはどうなのか、という問いです。

「当たり前だろう、作られるヒトの数が減れば生殖し得るヒトの数も減り、生殖被害者の数も減るのだから」と思われるでしょうか。

作られるヒトの数が減れば、その後の生殖被害者の数も減るはずだ、という点は、その通りでしょう――しかしこれでは、元の問いに戻ってきただけです:人口減少(生殖被害者の数の減少)は無生殖主義的に良いものなのでしょうか?

ここからは、人口減少を加害者――ここでの「加害」は「苦感能力を持っているらしい有機体を作ることによってそれに害をもたらすこと」――の数の減少として見た場合にそれが何を意味するのか考えて、

【A】人口減少は苦痛主義的に良いものなのか

【B】人口減少は無生殖主義的に良いものなのか

という2問に満足な回答を与えられるかどうか見てみましょう。


加害者の数はなぜ重要(でない)か

少ない生殖者がいるのと多くの生殖者がいるのとでは、どちらが良いでしょう。

ほとんどの無生殖主義者が「少ない方が良い」と言いたくなるか、実際に言うのではないかと思います。

これは本当に正しい答えなのでしょうか?

生殖者の数が少ない方が倫理的に善いということを証明するには、生殖者の数が最大苦感被生殖者(生殖で作られた者たちの中で最大の苦痛を感じる者)の経験する苦痛の程度(単純にQOLと呼んでも良いでしょう)に影響することを示す必要があります。


そんなことはできない、と私は最初思いました。

最大苦感者の経験する苦痛の程度を決定する要因はあまりにも多く、加害者/生殖者の数はその一つでしかないからです。

しかしこの問いに答えられないのは、我々が同時に存在する複数の苦感者の中から最大苦感者を見つけ出そうとしている場合だけなのではないかと思うのです。


異なる時間に存在する苦感者から最大苦感者を特定

無生殖主義は、存在するかも知れないけれど存在しないかも知れず、苦痛を感じる能力を持つかも知れないけれど持たないかも知れない者たちの苦痛を扱うものです。

このような特殊な立場ですから、我々無生殖主義者が無生殖主義的な問題に何らかの理論を当てはめようとする時、どうしてもある程度「クリエイティブ」なやり方を採らねばならないこともあると思うのです。

ここでは最大苦感者を、同時に存在する者たちではなく異なる時間に存在する者たちの中から特定してみましょう。


3つの異なる世界を考えてみます。

まずは世界A。

ここには20人のヒトが存在し、人口増加率は -20%です。

もう一つは世界B。

世界Aと同様20人のヒトが存在しますが、人口増加率は -50%です。

最後は世界C。

ヒトの数は20人で、人口増加率は -80%です。

そして、どの世界においても、あるヒトが非常に悪い人生を送る確率は5%とします。


複数のサイコロを転がした時に1つ以上のサイコロがX以上の目を出す確率を求めたあの数学の授業、覚えてますか?

ここでは、実際の人々のウェルビイングをかけて同じことをします!😜

世界Aの第2世代は20 × 0.8で16人、第3世代は13人、第4世代は10人……と計算を続けると、合計で68人のヒトが作られるので、非常に悪い人生がこの世界の誰かによって経験される確率は 1 - 0.95^68 で約97%と分かります。

世界Bでは21人が作られるので、非常に悪い人生が誰かによって経験される確率は 1 - 0.95^21 で約66%

世界Cでは5人が作られるので、確率は 1 - 0.95^5 で約23%です。


世界の誰かが非常に悪い人生を経験する確率は、人口増加率が高ければ高いほど上がるということが分かります。

ヒトの数や、あるヒトが非常に悪い人生を経験する確率を変えて同じことをしても、人口増加率と非常に悪い人生が経験される確率の間には同じ関係が見られます。

作られるヒトが少ない方が、最大苦感被生殖者の苦痛が減少する可能性が高まる、というのがこの思考実験から得られる結論です。


ここでは作られるヒトが経験し得る苦痛しか考慮していませんが、一応は人口減少をポジティブなものとして見る理由はある、と言えるようになりました――無生殖主義的にではなく、苦痛主義的に、ですが。


活動家の視点から

ヒトが少なく、従って生殖者も少なければ、ヒトの中の最大苦感者が経験する苦痛は減少するのでしょうか?

そうとは限らないがそうなる可能性が高い、というのが先の思考実験の結論です。

このように人々を生殖者として見るだけでなく、我々無生殖主義者が説得すべき対象として見ることもできます。

説得しなければならない人々が少なければ少ないほど、我々活動家の仕事は簡単になり、有感生物の生成が1件もなくなるという我々の目標の達成も早まるはずです。


「有感生物」と言って私が指すのは、当然ヒトだけではありません。

上の思考実験での計算は、人口減少がヴィーガニズム――非種差別的に実践される antinatalism、と私は定義します――にとって意味することは何なのか考えるための思考実験にも使えます。

「生殖者」を「動物製品に金を払うヒト」で、「作られるヒト」を「作られ苦しめられる動物」に置き換えれば良いのです。

こうすれば、畜産によって苦しめられる動物たちの中の最大苦感者が経験する苦痛は、人口減少によって動物産業を金銭的に支援するノン・ヴィーガンが減れば減るほど減少する可能性が高まるという結果を導出できます。

人口減少は畜産被害者としての非ヒト動物にとっても良い、ということです――苦痛主義的には。


無生殖主義はどう善を為すか

ここまでで、人口減少は苦痛主義的に良いものなのだと結論できますが、無生殖主義的にどうなのかははっきりしません。

人口減少は結局、無生殖主義的にどうなのでしょう?

この問いに答えるためには、無生殖主義がどうやって善を為し、どうして純粋なライダー派苦痛主義者(そんなヒトがいれば)にとって善を為すものに見えないのかを理解する必要があります。


ある者が無生殖主義を実践して生殖を控える時、ここでは非常に重大なことが起こっています:世界が丸ごと存在しない、ということです。

親愛なるこのブログの読者であるあなたは、ヒトではありません。

あなたは意識(あなたの知覚内容)です。

言い換えれば、あなたは自意識のある情報の塊のようなものです。

あなたはヒトではなく、あるヒトの身体に起きているように思われる意識です。

「起きているように思われる」と言うのは、あなたはヒトの身体の知覚を通して間接的に世界の側の世界に出会うことしかできないため、あなたが実際に(『実際に』ってどういう意味なんだろうね🙄)そのヒトの身体に起きているのかどうか知る方法がないからです。

あなたが何かを経験する時何が起きているのかよく見てみれば、あなたはこの知覚があなたであることに気付くはずです。

あなたが「世界」と呼ぶのはあなた自身です。

あなたが世界です。


というのをおさらいした上で、我々が生殖する時、そして生殖しない時、何が起こるのか見てみましょう。

我々が生殖すると、我々は世界の内容を知覚する意識を作ります。

生殖をしないと、意識は存在を開始せず、その世界も存在しません。

世界には、苦感能力を持つ者は一つしか存在しません――その世界を知覚する意識、すなわち世界そのものです。

この個々の意識(と個々の世界)の独立性こそが、複数の個体間で苦痛を合算することはできないとする苦痛主義を理解し内面化するための鍵となります。


単純に言えばこうなります。

無生殖主義が世界に唯一の苦感能力を持つ者の存在開始を防ぐ一方で、苦痛主義は、世界に存在する複数の苦感能力を持つ者たちの間で苦痛を分配する方法を示すものです(この文で2回使われた『世界』という語がそれぞれ別のものを指している点に注目!)。

無生殖主義と苦痛主義は、異なる階層で運用される倫理規範です。

明らかに苦痛主義的に良いものが、無生殖主義的はさほど良く見えないのも当然ですね。


ライダー派苦痛主義と穂積派苦痛主義

プレイヤー(モラル・エージェント)が最大苦感者の苦痛減少を志向する苦痛主義――正確に言えばライダー派苦痛主義(Ryderian-painism)――というゲームは、不運にも作られてしまった者たちによって仕方なくプレイされるだけのものであるべきです。

なぜなら、ライダー派苦痛主義の根拠である苦痛の自明な悪性は、苦感能力を持つ者は作られてはならないという結論をまず導出するからです。

もうこの2つの間に柵を立てておく必要はないのでは、と思うのは私だけでしょうか?

明らかに、苦痛の自明な悪性が導出する無生殖主義は、純粋な(※1)苦痛主義の領域で「ルール0」(ライダー氏が数々の『ルール』を提示する方法で構成した2001年の著書『Painism: A Modern Morality』を参照)となるべきものだからです。


※1:ライダー派苦痛主義が相対的に早く公にされた、という歴史的な意味での「純粋」。私がこれから提唱する苦痛主義の形は、絶対的には十分純粋なものだと思う。


私は穂積派苦痛主義(Hozmian-painism)を提唱します。

苦痛の純粋な悪性という単一の根拠から導出され、問題なく共存できる2つの立場「無生殖主義」と「ライダー派苦痛主義」を融合させた立場です。


結論:人口減少の倫理的価値

人口減少は、ライダー派苦痛主義的には良いものです。

無生殖主義的に良いかと言えば……まぁ、活動家の視点からは、仕事を楽にしてくれるという意味で良いと言えます。

しかし、人口減少は本質的には無生殖主義と無関係です。

無生殖主義が善を為すやり方は被害者(単数形!)を作らないことなのに、人口減少は被害者たちを作り続けるからです(被害者が作られない人口減少があるならそれは『絶滅』って呼びますよね)。

不運にも被害者たちが作られてしまったところには、無生殖主義ではなくライダー派苦痛主義が颯爽と現れて彼らを救おうとするのです。

それでも、先に言ったように活動家の視点からは無生殖主義的に良いものと言えますから、日本政府が慌てふためく姿を見て楽しむ皆さんの輪には多分私も加わって良いのでしょう。


今日はここまでです。

次のブログポストでお会いしましょう。

その時まで生殖せず、ヴィーガンとして生活し、よい人生を送ってください。

ではまた。

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