なぜ無生殖主義(反出生主義)を苦痛主義と絡めて複雑化するの?
- Asagi Hozumi|穂積浅葱
- 2 分前
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以前のブログポストで私のバージョンの苦痛主義を明確に言語化して、無生殖主義と苦痛主義を(頑固なライダー型苦痛主義者には『妥協』に見えるであろう方法で)厳密に両立できるようになったことはかなり大事な出来事だったのですが、どうやらそれを達成した方法の記述の仕方が稚拙すぎて、読者の一部にその意義が伝わっていなかったようです。
Facebook のANグループでは、「存在は問題で、非存在は無問題。こんな単純な反出生主義をこうやって(苦痛主義と混ぜて)複雑化することに意味はあるの?」という反応をもらいました。
私は無生殖主義が正しいことを確信しています。
苦痛主義が正しいことも確信しています。
しかし、現実世界でその両方を実践しようとすると、どちらかの倫理原則を破らなければならない状況が(ほぼあり得ないようには感じられるものの一応は)想定できてしまいます。
これは大問題です。
無生殖主義も苦痛主義も、それぞれが運用される階層ではほとんど明らかに正しいのですから。
無生殖主義と苦痛主義を両立したければ、そのどちらか、または両方を多少曲げなければなりません。
しかし、無生殖主義に関して「妥協」をしようと思っても、妥協の余地はどこにも見つかりません。
無生殖主義の妥協――苦感能力を持つものの生成をある特定の条件下では例外的に許容するなど――は、無生殖主義をもはや無生殖主義「的」ですらない何かに変えてしまいます。
私が苦痛主義者でありながら無生殖主義者でもあり続けるためには、全ての妥協をどうしても苦痛主義側でする必要がありました。
「なぜ無生殖主義と苦痛主義を混ぜて複雑化するの?」という問いは、構造的には「なぜ無生殖主義と功利主義を混ぜて複雑化するの?」と同じです。
功利主義者と無生殖主義者を両方自認する者は、自身の功利主義と無生殖主義とが衝突するケースを想定してしまった途端、功利主義と無生殖主義の両立を可能にする既存の道徳理論を探すか、自分で編み出す必要に迫られます。
私はそれと同じことを、たまたま多くの人々が聞き慣れないであろう苦痛主義でする必要があっただけです。
とりわけ功利主義と比べてみた時に際立ちますが、苦痛主義には独我論的な特性があります。
苦感能力を持つ者にとっては自分自身の苦痛だけが「本当」であり、その者は他者の苦痛を決して経験できない、ということをライダー氏は『苦痛主義:現代の道徳』(原題:Painism: A Modern Morality)の27ページで語っています。
苦痛主義の原型(ライダー型苦痛主義)でさえ、意識の独我論的な性質を正確に捉えているという意味で明らかに独我論的であり、これこそが苦痛主義を功利主義から差別する最大の特徴なのですから、その独我論をもう少しだけ突き詰めて無生殖主義を導出するバージョンの苦痛主義を提唱するのは、こじつけでも何でもないはずです。
私の稚拙な書き方が物事を複雑に見せた(かも知れない)だけで、実際に私がやったのはこんな単純なことです。
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